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T社自動車工業は設立一年後の1938年、毎月2千台を製造するという大構想を打ち出し、本格的な自動車生産に乗り出すため愛知県刈谷町から約20キロ離れた愛知県挙母町(現T田市)の広大な原野を切り開いて突貫工事で工場を完成させた。
利3郎は1941年1月に会長に退き、喜一郎が社長に就いた。
しかし第2次世界大戦突入とともに乗用車生産の夢は頓挫し、広大な挙母工場で生産するのはトラックばかりだった。
息を吹き返し、T田喜一郎は1952年7月に社長に復帰することが内定したが、その直前の1952年3月27日、脳溢血で急逝した。
喜一郎の長男の章一郎はまだ27歳だった。
このため石田は章一郎を取締役にするとともに社長を続けた。
石田は1961年8月まで11年間社長を務め、T社の再建を軌道に乗せた。
石田は「自分の城は自分で築け」との信念に基づいて無借金経営を進め、T社を大きく成長させ、T社の中興雛の祖と呼ばれた。
番頭がT社の危機を救ったのである。
石田は社長退任後も会長となり、後任の社長には12井銀行(当時帝国銀行)出身の中川不器男を指名して番頭による経営が続いた。
T田佐吉の甥にあたるT田E二は、1962年に副社長となり、モータリゼーションを背景に技術者の総師として大衆車の開発に取り組んだ。
そのヒットが1966年に生産販売した「カローラ」である。
カローラは爆発的な売れ行きをみせ、大衆車市場で日産自動車に差を付け始めた。
佐吉は借金を重ねて織機の開発に取り組んできたから、カーネを大事に使った。
E二は佐士ロから「カネは儲けるより、使い方が難しいんだょ」といわれた思い出がある。
「カローラ」にT社の命運を託した英2は、無借金で貯めた金を「カローラ」に投入した。
E二が心血を注いだ「カローラ」発売からほぼ一年たった1967年10月、中川が急逝。
E二は当然のように社長に就任した。
E二はT田佐吉の弟のT田平吉の二男で、T田喜一郎とはいとこの関係にあり辛苦を共にした。
E二のT社自工社長就任と同時に、喜一郎の長男であるT田章一郎は常務に就任した。
エ販合併、日本一の高収益企業へT田E二の社長時代、T社は石油危機や排ガス規制などの困難を乗り越え、日本一の高収益企業となった。
E二は、集中豪雨的な対米輸出が引き起こした日米摩擦に対応して対米輸出自主規制に踏み切り、GMとの合弁会社設立など、国際化の道筋を付けた。
章一郎は、この間、常務、専務、副社長と順調に歩を進め、1981年、T社自動車販売社長に就任した。
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